書きたいように書こう

腰のひとつも振れないで踊らされるのはごめんだ。

 誰かを非難することで自身を満足させるという心の貧しい人たちがいる。いや、人間誰しも納得いかなかったり自分の思った結果が出ないとき「なんなんだ、くそ」ぐらいのことは思う。心のなかで毒づく。

 だけど、たとえネットで匿名での発言とはいえ、あまりに強い悪意をあまりに簡単に放り投げすぎてやしないか。

 我々は誰かの大切なもの、ひいては「誰か」自身を傷つけることに無頓着になりすぎてしまったのではないか。

 そんなことを思ってしまう。

 

 卑しさをリアルと履き違えてはいけない。そのことを自分に言い聞かせながら日々を過ごしていきたい。

音楽のこと

 血液が沸騰するような、しんとした夜と一緒になって身体に沁みこんでくるような、そんな音楽が好きだ。

 

 古の人々は文字を持たなくても音に言葉をのせることで沢山のことを伝えた。それは経験であり知恵、生きていくための道しるべのようなものだろう。

 音と共に人類は生きてきた。原始の時代から何かを敬い、祝い、祈り、悼む時、音楽でそれを表現してきた。いわば感情や思いの発露として。

 

 翻って現在の音楽はどうだろう。随分昔に文字をもった人類は、今や世界中に網を掛け多種多様な言語と音節がその網、つまりインターネット上を飛び交う。ネットの普及で世界との距離感は変わった。

 例えば、海外のバンドの新曲。十数年前はラジオ等でかからないかぎり、CDが発売されるまでそれが一体どんな曲なのかわからなかった。実物を買ってコンポにかけてはじめて音を知った。それはそれで味わい深いものだったけれど。

 現代では新曲が出るとなればほとんどの場合公式のYouTubeチャンネル等にミュージックビデオと共に楽曲があがる。非常にありがたいことだが、自分としてはあまりにコマーシャルになりすぎているような気がすると同時に、曲だけで勝負してほしいという願望もあったりする。

 音楽にかつてのような怪しいロマンはなくなったのだろうか。アマゾンの奥地やアフリカの秘境で暮らす人々の歌には言葉を越えた郷愁を感じるが、日本のように必要以上に文明化したとも言える国においては、もはやロマンなどないのかもしれない。

 それでも音楽は人に寄り添っている。自分がそう言いきれるのはあるアイドルの曲のお陰だ。それが〈欅坂46〉の『エキセントリック』、そして『黒い羊』である。

 


欅坂46 『エキセントリック』 - YouTube

 


欅坂46 『黒い羊』 - YouTube

 

 この2つの曲に寄せられたコメントを読んで、自分は音楽の力を確信できた。

 アイドル、しかもAKB48と同様に握手会を開く秋元康プロデュースのアイドルだ。そのアイドルの曲が多くの人の心を揺さぶる。

 この2つの曲を聴くと、秋元氏の書く歌詞と両方の作曲者であるナスカの音が、見知らぬ誰かの乾燥した世界でひび割れた心に沁みていく様が想像できる。その作家としての圧倒的な能力に心から尊敬の念を抱く。売れている売れていないに関わらず素晴らしいものは生まれているのだ。

 

 以前自分はまったくアイドルに興味がなかった。よく聴くのは、中山うりチャラン・ポ・ランタン奇妙礼太郎竹原ピストル踊ろうマチルダ、ザ・バックホーン、ザ・リバティーンズアヴィーチー、コールドプレイ、ヴィンテージ・トラブル、そして沢山のルーツミュージック、古いロックンロール、ソウル、ブルーズ、ジャズだ。クラシックも多少聴く。そんな自分でも欅坂46の歌に心を動かされた。それは素晴らしい体験だった。

 

 いずれ別の記事で欅坂46秋元康についても書きたいと今思った。書こう。

本のこと

 本が好きだ。

 とはいっても、生粋の読書家のように子供の頃から本が好きで何千何万と読んできたわけではない。

 自分が読書をするようになったのは16~17歳あたりのことで、それも当時やってた音楽のため、主に歌詞を書くにあたって語彙を増やしてやろうというもので、しかも断続的なものだった。

 はじめはお決まりの村上春樹から入って、なんとなくロックっぽいからと村上龍ロッキングオン山崎洋一郎氏が薦めていた白石一文ザ・リバティーンズピート・ドハーティが影響を受けたらしいと聞いてオスカー・ワイルドなどを読んでいた。

 古典と呼ばれるような小説や最近の人気作家の本を読むようになったのは、ここ数年のことだ。今は三浦しをんを読んでいる。

 このように子供時代からの読書家でもなく、過去から現在の文学の要点をおさえているわけでもないが自分は本が好きだ。

 もちろん『ドラゴンボール』からはじまり漫画も好きで、ジャンプを読んで育ってきた。小学生の頃にはじまった『ワンピース』や『ハンター×ハンター』は遅れながらもなんだかんだ読み続けている。

 

 ここ3~4年で自分自身でも少し小説のようなものを書くようになった。しかし、自分はこれまでほとんどの時間を音楽に割いてきたので、圧倒的に読書量が足りないということに小説を書きはじめて気づいた。それで古典から現在の人気作家までなんでも読んでみようと思い立ったのだ。

 歌詞と小説は違い過ぎる。その事実の大きさは衝撃的だった。

 

 このところ芸人やミュージシャン、アイドルまで様々な人が小説を出している。それを見ていて正直なところ嫉妬もする。だからじゃないが、自分が面白いと思える、良いと思える小説を書いてみたい。そんな感じだ。

初記事

 ブログもTwitterも、何度もアカウントを作って、その度にはじめは気合いを入れてやるし、実際楽しく使っているが、しばらくすると中途半端に放置したりアカウントを削除してきた。

 そんなことを繰り返すうちに、自分が結局何をしたくてそうしたブログやSNSを利用しているのかわからなくなった。

 僕の場合、ネット上での繋がりはリアルの自分の生活とは一切関係ない。それでも人と関わるのが嫌になることがある。ネット上の緩いコミュニティや愛好家同士の関係性であってもどこか息苦しく感じてしまう。自ら求めていったのに。

 なぜそうなるかというと、ある程度関係性ができてくると「あの人はこういう話題嫌いだろうな」とか「この話したらフォロワーいなくなるかも」など、「誰かに嫌われたくない」という思いがはたらくからだ。

 

 実社会でも人付き合いは苦手だ。同じ職場の人間や仕事で会う人たちとそこまで密接な関係を築くことなどできないし、したくもない。僕にとって社会と付き合うことはイコール疲弊でしかない。

 家族や恋人、友人との関係も正直苦手だ。家族、親類とはうまくいってないし、恋人や友人とも適切な距離で付き合えた覚えがない。そもそも友人と呼べる相手が少ない。

 嫌われたくないという思いからいい人であろうとする気持ちと、顔も知らない人とどんな距離感で接すればいいかわからないということから、結局はすべてが面倒になってしまうのだ。

 

 では何故再びブログやTwitterをやるかといえば、やはり自分の中にあるものや感じたことを残しておきたいからだ。

 そして、これまでと違うことが一つ。それはかっこつけない、ということ。誰かによく見られようという気持ちを廃して本当のところを書くようにしたい。ネットだからといって虚像の自分を演じることはやめる。

 そうした気持ちで書いたり、また書かなかったり、飾らず自分の思うようにやっていこうと思う。